先日、友達とお茶してた時に
お見送りについての話題になりました。
どこかに旅立つ時に
お見送りされることとすることについて。
私は、誰かが東京にくるよ~とわかると
可能な限り、空港だとか東京駅だとか
大きなステーションになる場所に迎えに行くタイプです。
それはもしかしたら
我が家の小さい頃からの習慣が
なんとなく身体の中に残っているからかもしれません。
小さい頃、秋田市に住んでいたのですが、
大きなステーションといえば
市内から車で向かう空港か、
電車の駅である秋田駅。
今は秋田駅には新幹線もとまるようになりました。
秋田空港も、東京に住んでから何度か利用したことがあります。
秋田市の家に親戚の人たちが遊びに来るという時には
空港や駅にみんなでお迎えに行きました。
今考えると、何も全員で行く必要はないだろう
とも思うのですが、
なんとなく、それが普通のことになっていて。
今も、私が秋田の祖父母の家に行くと
祖父母が二人揃って最寄駅まで迎えに来てくれるんです。
そして帰りはかならず、また最寄駅までお見送りしてくれます。
先日、友達が言っていたのは
しばらく会えなくなるっていう時のお見送りをされるのは
すごく寂しくなっちゃうからいやだなあ
っていう話。
まあ、そうなんですけれど。
寂しくはなりますよね。
海外に住んでた親友が、日本からまた海の向こうに帰るって時に
ガラス越しに女二人でぼろぼろ涙を流したこともあり…
おいおい…大丈夫ですか~?って思うんですけれど。
なんかやっぱり、あのガラス越しって寂しいですよね。
ちなみに、その子は次の月に急な用事で
再び日本に帰ってきてね。
「次は来年だね~とか言ってボロ泣きした、あのガラス越しの涙を返せ~~」と
恥ずかしくなっちゃって二人でげらげら笑ってましたね。
私が父の顔を最後に見たのも
仙台駅の新幹線ホーム。車内のガラス越しに。
そういうのも、「ガラス越し」が寂しくなる由縁かもしれません。
でも何が一番困るかって
友達と「ばいばーい」って手を振り合っている間はまだいいんですよ。
友達の姿が見えなくなった瞬間
どわーって恥ずかしさが込み上げるんですよね。
あれって、結構いたたまれない。
もちろん、「あー、行っちゃったなあ」とか
「あー、飛行機乗らなくちゃ」とか
それぞれ思うところはあるんですけれど
友達が見えなくなったら周りは他人だらけって現実に
引きもどされるじゃないですか。
はたっ
って赤面しちゃうんですけど。
私だけ?
まりさんひさしぶりです、駅や空港の送り迎えの最近はその習慣はやや減った印象はありますが、駅に向かい来た思い出は私が高1から高2の春休みに福岡の親戚に遊びにいった帰りに東京駅に姉が迎えに来たいうことかな、送りは8年前に父が東京駅で私が四国旅行で「サンライズ瀬戸」で四国へ行く時でした。