宮城県気仙沼市。
県の北東部、海沿いに位置するこの町は、漁業が盛んに行われる漁師町。
ここは、津波と共に火事の被害もあった場所です。
火を消してくれるはずの波が、火を運んでいたといいます。
私たちは、そのうちの一つ、とあるお寺で炊き出しをさせていただきました。
20人くらいが手分けをして、カレー、肉じゃが、サラダ、焼肉、などを作りました。
一昨日も書きましたが、避難所では、被災されている方自らが、交代で朝・夕の二回、80人あまりのご飯を作られています。
避難所だけではなく、住める家はあっても食べるものがない方も、炊き出しに訪れます。
「5人分、入れてください」
と、タッパーを持っていらしている方もいました。
みんな、思いをこめて一生懸命作っていましたが、
たった一回、調理を代われただけ。
さらに当たり前のことですが、
お食事が終わっても、
鍋を洗ったり、ゴミをまとめたり、
これも全部が80人前。
普段はこれを毎日、被災された皆さんがされているのかと思うと、複雑な気持ちが沸いてきます。
お食事が終わり、片づけもすべて終わった後、1人のおじいさんとお話をしました。
久しぶりのお肉だった、
と、笑いながらお話してくださいます。
避難所には、野菜やご飯は届くのですが、お肉やお魚は輸送も難しいのか、なかなか届かないとか。
さらに、もともと漁師をされていたというおじいさんは、目を細めながら
やっぱり、刺身が食いたくなるんだよなぁー
と、おっしゃりながら、一枚のテレフォンカードを見せてくれました。
気仙沼の港あたりが映った夜景のカード。
流された家の後から見つけ、拾ってきた大切なものの一つだそうです。
ここに漁協があって、
ここが◯◯で、、
と、テレフォンカードを見せながら、教えてくれます。
キレイな夜景の、静かな街。
そして一言、こう話してくれました。
「いつかまた、こんな景色になるんだなぁー」
何もかもを流されてしまったから、
全てがゼロからのスタート。
それなら、岡山にも香川にも、漁業ができる街はあるし、土地を離れることも、選択肢の一つとしてないこともない
でも、そんなことは考えず、
生まれ育った気仙沼にまた明かりが灯る日を思うおじいさんが、私には、
気仙沼に住みながら、
気仙沼を守っているように思えました。
どんなに不便でも、
おじいさんに限らず、
気仙沼を離れず、暮らす人は、
逃げ出したくなるような現実をじっと耐え、
いつか気仙沼に、再び明かりが煌々と灯る日を待っています。
この街の夜景を、この目で見られるその日まで、
私も思いを持ちつづけます!
3月11日にテレビでリアルタイムに気仙沼港の津波をみてショックを受けてから2ヶ月。
まだまだ大変な状況ですね。
先日、地震で福島から玉野市へ来られている妊婦さんが無事に出産したとテレビで放送していたそうです(私は観れませんでしだか・・・)
そういう、ニュースは嬉しいですよね