永遠と消えゆくもの

永遠の何かなんて
存在しないのかもしれない。

そんなことを
いろいろな局面で感じます。

今というこの瞬間が
明日もあるのかは
誰にもわからない。

小さい頃「今」という瞬間について考えて
頭がもやもやし過ぎて
うわ~っと叫び出したくなるような、気持ちがもごもごする感じが
何度もありました。

「今」って言った瞬間、
もう「今」は「今」じゃなくて
さっきの「今」って発言は、過去に「今って発言した」ことになっていく。

未来はまだ来ていない、わからないもの。
過去はさっきまでのこと。
じゃあ「今」って何なんだろう。
そんなことを
ぐるぐると考えていたんです。

ただ単に
宿題やりたくないな~
って思って漢字ドリルを目の前に頭の中で発生した逃避行動だろうけれど…
ははは~。おさぼりちゃん。


自分が今こうして
いろんなことを考えているということは
自分の「今」があり、過去を過去として認識できる「今」があるから。


小さい頃
祖父が癌で亡くなりました。
写真の中のお爺ちゃんの笑顔、一緒に遊んだ記憶は
とても曖昧なくらい、小さい頃でした。

小学生の頃
同級生が何人か亡くなりました。
病気だった子、事故だった子。
昨日まで一緒に笑っていた子たち。

中学生、高校生の頃にも
同じ学年の子が何人か亡くなりました。
廊下ですれ違ったことがあった子。
隣のクラスの子でも、一度も話したことがなかった子でも
子供心に、身近な人が
昨日までいたのに今日はいないという現実が
重くごろりとした塊として、お腹の奥にある暗い箱の中に落ちてきました。

大学生の時、
父が亡くなりました。
あまりの突然死に身内も、知人も、会社の人たちも、
ただ呆然としていました。
しばらくして、時が経ってから
受け止められない自分の心だけが残りました。


一緒に暮らしてきた
猫たち、鳥たちが
いろいろな形で亡くなって行きました。
その度に、自分に出来たことは
もっとあったのではないかと、思いました。


永遠はない
ということは
頭で分かっていても、

消えゆく何かを目の当たりにした時に感じる
他のことでは例えられないような
何とも言えない、胸の奥の、彫り込まれた、えぐれ。

その度に
自分の体感時間が
伸びて行くような気がしてしまいます。


自分自身にも
永遠はない。

そして
「今」と言っている瞬間が
断続的に、確実に、過ぎ去って行く。

1日、1日
貴重な24時間を
どう使って行くのか。

特に確固たる理由はないけれど
本当に「限られている」ということを
自分自身に対して強く感じることがたくさんあります。


人生は忙しい。
ぼんやりしたり
選択を誤ったりすると
あっという間に時が流れてしまう。

どこで
だれと
何をして過ごす時間を
選択して
積み重ねて行くのか。

そう考えると
先日読んだ、四角大輔さんの本にもあったように
大切な人と過ごす時間や自分のやりたいことに時間をちゃんとかけるようにしていくことが、いかに大切かということも、痛感します。


暇だな~
なんて思ってぼんやりする時間なんて
出来るはずがないんですよね。

あえて暇を作って、いろいろ休ませる時間は大切だと思います。
でもそれは、暇~とぽやぽやしている時とは全く違うんです。

忙しさに巻きこまれてはいけないけれど
暇な時間なんて
ないはずなんだろうな。

そういう毎日が
先へと連続しているだけ。


うまいこと
かっこよくまとめられないけれど、
なんとなく思ったことを
ちゃんと残しておこうとおもって書きました。

ちゃんちゃん。

コメント

過去から未来へと流れる時間の大河…

その流れその物が
『今』なのではと感じています

私も麻里さん程では無いですが、沢山の命との別れを経験してきました。
人生の残り時間って思っているほど多くは無い、未だ誰も到達していない地に足跡を残したい、それにより沢山の人の思いに応えたいと思っています。

炎の人 2013年07月01日

自分は家族や友人を亡くしたことはありませんが、飼っていた動物を亡くしたことは何度かあります。

特に、最初飼っていたハムスターの赤ちゃんが死んだときは、夜通し泣いていました。今でも状況が目に浮かぶくらい鮮明に覚えています。

だからこそ、一つ一つの時間、生命などとしっかり向かい合って生きていきたいなって思います。

時間についてなんですが、経済学を学ぶ際にで良く言われることがあります。「分配」と「配分」は違うということ。経済学の洋書を読むと、"allocation"と"distribution"で明確に違うから区別がつくのですが、日本語だと文字をひっくり返して、なんか似ているから間違えて使う人が意外と多いみたいです。
分配というのは、比較的自由に分けるという意味があるのに対して、配分は自分の価値を見出しているものやリターンの多いものを対して資源を費やすことを意味します。
そもそも、経済というのは有限のものの希少性をどう扱うかを対象にしています。なので、時間についても同じように言えるのかなって。

自分も先日、同じようなことを考えたので、書いてみました。

てる 2013年07月01日

今、生きている、ということは、きっと何か目に
見えないものの力が働いているように思える
この頃。クローバー

少しでも、世の中がよくなることに、生きている
命を使う事が出来ればいいなぁ、と思っています。芽

そう思いつつ、昨日も、今日もボランティアに励んで
きたのでした。。。☆

まるみる 2013年06月30日

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