二月物語

その日の夜、彼女は一人空港に居た。
様々な国の人々で溢れるカウンターでは日本語と英語が飛び交っていて、象徴的な掲示板は忙しくパラパラと飛行機の行き先を告げている。
彼女は早々に搭乗手続きを済ませると、搭乗口前のベンチに腰掛けて、ガラス越し見えるいくつもの飛行機を見つめていた。
滑走路からまた一機、大きな鉄の塊が凄いエネルギーと共に陸を離れ、真っ暗な大空へと飛び立っていく。
ソレは初めて目にする光景ではなかったが、何度見ても初めて見た日の感動を塗り替えていく様だ。

―これから七時間半、私は空を飛ぶ。

小さな窓の外では東京がキラキラと光って見える。

どれほど時間が経っただろうか、甘い香りに誘われて目を覚まし、ふと外に目をやると見たこともない景色が広がっていた。
見下ろすと遥か低いところにある地平線から太陽が顔を覗かせているが、自分の目線ではまだ真っ黒い空で星が瞬いている。
朝と夜が同時に今、目の前に存在しているのだ。
その間の空は淡いグレー、ブルー、グリーン、オレンジ、そして朝日の朱色の順でグラデーションに染まっていて、素晴らしく幻想的だった。
そこへ焼きたての温かいクッキーとコーヒーが運ばれてくると、もう何も必要なかった。
初めての一人旅にしては完璧すぎる滑り出しに彼女はうっとりと溶けてしまいそうだ。

それから暫くして降り立った目的地はカラリと晴れていて、過ごしやすい陽気。
思わず胸いっぱいに空気を吸い込むとタクシーへ乗り込んだ。
ホテルのチェックインまでには少し時間があるので、ホテルから程近いモールへ向かう事にした。
すでに全開にされている車内の窓から南国の風が吹き込み心地が良い。
と、程なくしてスコールのように雨がサーと降り始めたが、空は変わらず明るく晴れている。

モールに着くと、なんとも言えない異国の香りがあちらこちらから香っていて、南国らしいカラフルな色合いのディスプレイに彼女は人知れずテンションが上がっていた。
誰かとワイワイ楽しむもの良いが、一人ムッツリとニヤニヤするのも悪くない。
一通り必要なものを買い揃えると、彼女はホテルに向かった。
先ほどまで降っていた雨は上がり、空には綺麗な虹が架かっている。
大きな道路を幾つか横断し、海沿いを歩いてみると潮風が気持ちよく、ビーチで思い思いに過ごしている人たちを横目にホテルを目指した。

今回、宿泊する施設はそのビーチの目の前に立つリゾートホテルだ。
大きな滝が流れているエントランスを抜け、ロビーに到着すると引き笑いの奇抜なオウムが出迎えてくれた。
見上げた天井ではシーリングファンが幾つも回っていて、並んでいるソファーはベッドのようだ。

フロントでキーを受け取り、部屋に入ると、小さなバルコニーが目に付いた。
薄いレースカーテンの向こうにビーチが透けている。
持っていた荷物を無造作に降ろし、吸い込まれるようにガラス戸を引くと、暖かい潮風が部屋いっぱいに吹き込んだ。
煌くビーチに打ち付ける穏やかな波、遠くに見える山々の更に向こうには空と海の地平線が見える。
幾つか組んだ予定をすべてキャンセルしてしまっても惜しくは無い景色を見つめ、しばらくの間ぼんやりとしていた。

翌朝―。
朝というにはまだまだ早い時間に起きだして、バスに乗り込んだ。
野生のイルカを見に行くのだが、時差ぼけが酷く、意識が朦朧としている。
確かな事はまだ空は暗く、間違いなく肌寒い。
これから海に入るのだと思うともう寒いが、バスは元気に走り続ける。
ガイドさんが言うには、この時間はまだイルカも眠っているので比較的ゆっくりと泳いでいるところを観察できるのだそう。
ホテルから一時間ほどの港に付くと、あたりもほんのり明るくなっていて、少し湿った空気が美味しく感じられるまでに復活していた。
早速、船着場から海を覗き込んでみると、ガラスのように透き通った浅瀬で熱帯魚が無数に群れ、停泊しているボートを繋いでいるロープや船底を丹念につついて回っている。
随分と早起きな熱帯魚たちと別れ、ボートに乗り込むと、沖を目指しボートは走り出した。

山の間に間に溢れ出す朝日は神がかりに美しい。

その時は突然だった。
「入ってー!」の号令というよりは絶叫に近い声にシュノーケルを加え海へ入ると、想像を絶する景色が広がっていた。

何も聞こない海中は、底抜けに透明でどこまでも果てしなく、見渡す限りに何も無い―。そんな経験は生まれて初めてで、恐怖感すら覚えた。
フィンが揺れる足元を見下ろしてみると、水深二十メートル程だったが、鮮明に海底が見えすぎて自分が飛んでいるように感じられた。
それは羽ばたかずにいても決して落ちることの無い空の様で、その中を悠然と泳ぐ三十頭ほどのイルカの群れはこの世のものとは思えなかった。
降り注ぐ朝日も海の中ではベールのように揺らめいている。
だだっ広い何も無い空間に浮かんでいて、目を閉じると自身の呼吸が耳の奥に聞こえる。
彼女はこのとき「母なる海」を感じていた。

どれくらいの時間をそうしていたのだろうか、太陽が空高く上がると、それまで優雅に泳いでいたイルカ達が思い出したように更に沖へと姿を消した。
眠りから覚め、餌を捕りに行くのだという。

彼女たちもボートへ上がると、船上の昼食となった。
次に向かうのはシュノーケルポイントだ。

先ほどとは打って変わり、そこはゴツゴツとした岩が海面からも見える場所だった。
海に入ってみると、その岩肌に寄生している珊瑚やイソギンチャクを隠れ家に小さな生き物が数え切れないほどに住んでいる。
ガイドさんに手渡されたパンを差し出すと、一瞬にして小魚たちが群がり、目の前が一面熱帯魚になっていた。
熱帯魚以外に何も見えない。
が、それもパンがある間だけの幻想で、それがなくなると、途端に姿を隠してしまう。
なんとも本能的ですばらしい。
それでもよくよく目を凝らしてみると、小指ほどのフグが泳いでいたり白い靴下を履いたえびが居たりとそこら中に生き物が居る。
そしてそろそろボートへ戻ろうかという時に、彼方でプカプカと海面に浮かぶ海がめを見つけた。
丸い頭を突き出して辺りを見回しているようだ。
ガイドさん曰く、海がめは海の守り神なのだそう。
もしかするとこの海がめはパトロール中だったのかもしれない―。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、ボートは帰路に着いた。
肩から掛けたバスタオルは沢山の太陽を浴びて、染み入るように温い。
ボートに揺られながら、重たくなった瞼が閉じてしまいそうだ。
すると、突然「すごく近い」とガイドさんが叫ぶので見てみると、海面から水しぶきの柱が上がり、次に大きな尻尾が見えた。

―クジラだ。

それは体の一部であるのに両手を広げてみても足りないほどに大きく、想像する全体は巨大で遥かにこのボートより大きい。
決して水族館では見ることの出来ない生き物はそれから姿を見せなったが、その姿があった場所には小さな虹が架かっている。

心地よい眠気と素敵な出会いに彼女はいつまでも目を細めていた。

コメント

お誕生日おめでとうございます。

短編小説いつも楽しみに読ませてもらってます。

これからも頑張ってくださいね。

Happy♪(* ̄ー ̄)ノ"iiii Birthday♪

fire 2013年02月19日

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