ニーチェの言葉を集めた本で
気になった言葉から。
「無限の豊かさは自分にある」という章。
「同じ物を相手にしていても、ある人は一つか二つくらいのことしかそこから汲み出すことができない。このことはふつう、能力の差だと思われている。しかし実は人は、その物から何かを汲み出しているのではなく、自分の中から汲み出しているのだ。その物に触発されて、自分の中で応じるものを自分で見出しているのだ。」
あ、そうか。
と思いました。
とある1つの物について考える時、
自分の中にある材料を引っ張り出して来て、
それらの材料を並べ
組み合わせを考え、
使う物、使わない物を分別し、
使う物だけをさらに適切に並べてみよう、混ぜてみようと考えているんです。
目の前に提示された「とある1つの物」から発見したように感じていても
その発見の引き金となるものは、必ず、これまでやってきた自分の材料の中にあるはず。
たとえ、「とある1つの物」が全く知らない何かであったとしても
知りたければ、調べたりしますよね。
現代ならばネット検索が簡単便利です。
でもその「ネット検索」ですら、
知らない物について知りたければネット検索という方法がある、ということを
「知って」いなければ出来ないことです。
ネット検索を行うための具体的な方法(パソコンを立ちあげ、ネットに接続し、検索バーに言葉を入力するなど)も「知って」いなくてはいけません。
ネット検索以外にも
図書館に行って調べてみるかもしれません。
もしくは誰かに質問してみるかもしれません。
その時点でも
自分の中にある物の中から探っているんです。
どこの図書館に行こうか、考えますね。
行っても、目指す資料がありそうもないようなジャンルの図書館には
ダメ元で行ってみてラッキーということもあるかもしれませんが、
あまり行くことはないかもしれません。
質問しても、適切な答えが返ってこないような人には質問せず、
知りたい事に関して詳しそうな人を自分の頭の中で探してから
この人なら知ってるかなあと思って質問してみる、となるかもしれません。
どこをどう調べてみるのか、どこにどう質問してみるのか
その段階ですでに
自分の中の材料が使われているわけです。
本の文章はこう続いています。
「つまり、豊かな物を探すことではなく、自分を豊かにすること。これこそが自分の能力を高める最高の方法であり、人生を豊かに生きて行くことなのだ。」
発展させていくためのきっかけは
どこかから、誰かから受け取るものかもしれませんが、
それを刺激として捉えられるかどうかは
自分の中にあるもの次第。
良いものにたくさん触れ、
必要なものを常に集めておき、
学び続けることで、
多種多様な視点が生れ、
さらにはオリジナルが発生する。
真のオリジナルは
その人の持っている材料でしか
作れないもの。
それらは
なんらかのテストをしなくとも
じわりじわりとにじみ出てきたり、匂ってきたりするものなんですよね、不思議です。
いろいろなことを考え触れる度に
ああもっと学ばなくては、もっと触れて行かなくては、
もっともっとと、思います。
その先にある化学反応が
楽しみで仕方がありません。
だから続けられるのかもしれません。
撫でてくれよ~と近寄って来たウィルさんの
お腹をごにょっと撫でながら
頭の中「かわいいね~」しかない状態
というのも
私の中でのリセット時間として必要な時間でもあるのですけれどね。
それを見てどう思うか、どういう考えが出てくるかは
自分の頭の中身次第。
ウィルさんのこのポーズを見ても
動物の学者さん、獣医さんは私とは違う事を思うかもしれないし、
心理学者さんもまた、私の行動とウィルさんの行動を照らし合わせて違うことを思うかもしれない。
どれが正解、とかではなく、
自分にはこう見える、こう考えられる
ということも大切。
ウィルさんは
私の癒しを担当してくれる大切な家族です。
そういう部分も必要なので
ウィルさんに関してはあまり突っ込んで分析せずに
これでよしっとしております。
ウィルさんはウィルさんで
頭ん中、美味しいササミのことで豊かに巡っているかもしれません。
参考著書:『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
著者:フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
(Friedrich Wilhelm Nietzsche)
日本語訳:白取春彦
心から話せる相手
自分は人でもペットでも変わらないと思います
そう思える相手探しを続けております