忙しい人だと
帰って寝るだけの場所
になっている人も多いかもしれませんね。
私は学生時代は
帰って練習して勉強して倒れる場所が
(眠るっていうより倒れたら寝てたみたいな日が多かった)
家っていう人でした。
今はね、
ちょっと違うんです。
この違いは
家族。
母もすれ違いながらも時々は顔を合わせられるし、
ウィルや森・海の3匹が
いつも首を長くして帰りを待っていてくれます。
ウィルは私が帰宅すると、
どんな時でも
100%、玄関まで走ってきて
全身で「おかえり!」を表現してくれます。
日本語も言わないし、ワン!とも吠えないけれど
キラキラした目と、
ちょっぴり上がった耳と、
飛んで行っちゃいそうなくらい振り回すシッポ。
びっしり生えた毛の1本1本まで使っているかのような表現力で
「おかえり!待ってたよ!I love you!!」と絶叫しているかのようです。
こういうのが
あるのと、ないのとでは
天地ほどの差が生じるかもしれないなと思って
いつも、家族が待つ家に帰ることを
ありがたく感じています。
今日はそんな「おうち」の物語を読みました。
『ウェルカム・ホーム』(新潮社)
鷺沢萌さんの小説。
実は一番近くにある、自分のウェルカム・ホーム。
帰りたい家はちゃんとそこにあった。
そんな2つの家の物語です。
自分の家は「フツー」だろうか。
特に小さい頃に、誰もが一度は感じたことがあるのではないでしょうか。
よく小学生の子が言う
「だって○○ちゃんちは、◇◇だもん」
母は
「じゃあ○○ちゃんちの子になりなさい。うちは違うんです。」
と言い切っていました。
そういう教えのお陰なのか
私は逸脱も比較的怖くなかった気がします。
自分のやりたいこと、
目標に向かってやるべきことがあったら、
友達が遊んでいる時間を使ってやらないといけないことがあっても、
不満に思うこともなかったし、
それで仲間はずれにされたらどうしようっていう恐怖も持たない子に
育ったのかなあと思います。
「誰もフツーじゃないし、誰もフツーじゃないんだから、逆にみんながフツーなんだよ」
その家の普通のことや、
何がどう普通なのかは
誰かが決めるのではなくて、
自分が決めることかもしれない、と
このセリフを見て思いました。
でも「我が家の普通」って
外に出たらきっと普通じゃないかも
と思うことが時々あるので、
そういう話題になるときは
恐る恐る…になってたりもするんですけれど。
今日もオリジナリティ溢れる我が家に
ただいま!と言いたいと思います。
“ただいま”に対しての、“おかえりなさい”
この、おかえりなさいって、日本の文化(?)みたいですね
(違っていたら、すみません…ウソつきました)
日本でない国の方から、
“おかえりなさい”にあたる言葉がない。
と、よく言われたり、聞いたりします。
“おかえりなさい”と聞くと、ほっとしますが、
その話を聞いたら、
ありがたくも感じるようになりました。
いい言葉だな。って…